上の写真は日本の女子大生旅行者と現地人のツアーガイドみたいだが,中央の男性はアキさんである。
この日はアキさんの誕生日であり,久しく日本人の女の子と話したこともないと嘆いていたアキさんのために,女子大生二人組に僕が声をかけてしばらくシンガポールを案内したときの写真である。このあと、喉が渇いたと後ろに生えていたヤシの実をもぎ取り,地面叩き付けて割り,口の周りをベチョベチョにして飲むアキさんと僕の姿に恐れをなして彼女たちは去っていったのだが。
僕のヨーロッパでのバスキングに感化されたわけでもないだろうが,アキさんがヨーロッパでバスキングをしてみると言い出した。彼はシンガポールだけではなく,オーストラリアでもバスキングの経験があったのだが,僕の話しからヨーロッパでのバスキングに興味が湧いてきたのだろう。ちょうどそのとき僕の方は,日本経由でアメリカ,カナダでのバスキングを考えていた。お互いに「明日のことは風まかせ」的な生活をしている身だからヨーロッパでの再会などきっちりとは計画できなかった。手紙のやり取りは常にあったものの,2週間ぐらい遅れての情報であるから,リアルタイムでお互いにその時どこにいるのかは知るすべもなかった。その頃の友人知人の手紙を受け取る方法は,自分の移動する町と時期を考えて友人にその町の郵便局留で手紙を出してもらうしかなかった。もちろん国際電話という方法もあるのだが,これは緊急時のみだった。
僕はカナダでは比較的稼げたものの,アメリカでのバスキングは,苦戦に次ぐ苦戦の連続だった。それに東海岸からヨーロッパに飛ぶはずが,結局安いチケットがないという理由でノンストップでバスでロスまでもどってフランクフルトに飛ぶことになった。(ヨーロッパで世界周遊のチケットを買っていたのでロスからドイツへのチケットは持っていたため。)そしてフランクフルトの空港に到着した僕は,その場の思いつきでドイツには滞在しないで、そのままスイスに戻ることにした。フランクフルト駅に着くと、直ぐに列車に飛び乗りドイツとスイスの国境の町であるバーゼルに向かった。まずは今夜の宿代だけでもバスキングで稼いでしまおうと思ったからだ。その頃バーゼルは駅の中でも演奏が可能だった。鉄道警察の取り締まりがはじまった今のスイスではとても考えられないバスカーにとっては旧き良き時代であった。
バックパックを横におきバーゼルの駅の中で1時間ぐらい演奏した頃だろうか,ふっと前を見ると一人のアジア人がニコニコしながら歩いて来る。アキさんだった。彼がヨーロッパにまだいることは知っていたし,たぶん何週間後かには再会する事は予期できたのだが,僕がヨーロッパに着いたその日に会えるとはさすがに思ってもいなかったので実に驚いた。これもアキさんの言う「必然」だったのだろう。その時彼は知り合いのカナダ人のフォトグラファーが1ヶ月ほど留守にしているので、その人のスタジオを寝床に使っており,僕もそこにただで泊めてもらえることになった。このときもまた僕は強運にめぐまれていた。アメリカからヨーロッパについてまったくお金を両替もせずにスタートすることになったのである。(鉄道パスだけは事前に購入していた。)
それにしてもあの頃は僕もアキさんも知りあった人のところによく転がり込んでいた。思うにたぶんこれもバスカーとしての重要な資質の一つかもわからない。そうしてバーゼルのフォトスタジオで寝袋を並べての僕たちの共同生活が始まった。お互いにバスキングに行く以外は特にやらないといけないこともないので、(もちろん僕らにとって観光など関係のない世界である。)暇なときは二人でずっと話しをしていた。そして夕食は彼が見つけた3フランで腹一杯に食べれる貧民救済の施設に出かけて食事をした。アル中やジャンキーの人たちに交じって、僕とアキさんは直ぐにそこの常連客になった。
そのあと僕もアキさんもスイスからパリに移った。僕は友人宅で演奏時に販売するカセットテープを録音するため,アキさんも友人宅に転がり込んで少し休養するため。パリでも僕たちは何度か連絡しあって会った。パリでも節約の生活を送っていたアキさんをチャイナタウンに連れて行き,フランスパンにチャーシューを挟んだ中華風サンドイッチを勧めると,「これがパリで食べた中で一番おいしいものだ。」とグルメを自認しているフランス人が聞くとぶったまげるような感想を述べていた。でもこれには「この価格で」という条件をつけるならあながち僕も否定は出来ないと感じた。ヨーロゥパとアジアを比べると「おいしいもの」というだけなら好みの問題で甲乙をつけがたいが,「安くておいしいもの」となると間違いなくアジアに軍配が上がるであろう。
僕はそのあともヨーロッパに留まり,アキさんはホームグラウンドのインドネシア帰っていった。
そのあとも数回アキさんとはシンガポールで会ったと思う。でもついにアキさんにとっていつも心配していたことが起こってしまった。今はどうか知らないが実は当時シンガポールでのバスキングは全面禁止だったのだ。そんなわけで僕もアキさんもシンガポールで演奏する時はポリスの姿に細心の注意を払いながら演奏していた。でも,長くバスキングをしていると警察との接触はどうしても避けられないことだ。僕もシンガポールで演奏していてポリスに警告されたことは数限りなくある。でも僕はシンガポールには,そんなに長く滞在してるわけではないので警告だけで難を逃れていた。でもアキさんの場合は,パスポートにインドネシア、シンガポール、マレーシアの出入国スタンプが無数に押されているのだから,不法滞在、不法労働を疑われたらひとたまりもない。ついに彼はシンガポール国外追放の通告を受けることになってしまったのだ。
彼に取ってはこのことは,今までの生活パターンを変更しなくてはならない大打撃であったはずなのだが、「これもそろそろ違った生き方をしろという啓示なんでしょう。」と多少の負け惜しみはあったかもしれないが,めげることもなく数年ぶりの帰国を計画したのである。それにこのときはここ数年来ギターの練習のし過ぎから痛めた右手がより悪化していて,その治療に専念しようという気持ちもあったのだと思う。一時アキさんの右手は鉛筆もちゃんと持てないような状態だったらしい。そのころにもらった手紙はほとんど読めないようなものだったという記憶がある。
ただ彼らしく日本に帰国すると言っても,直接に東京の実家に帰ることはなく,途中で立ち寄った沖縄の輸入雑貨店で働きだした。そこの店では得意のインドネシア語を生かしてインドネシアに買い付けにも行っていたらしい。まあ,どんな状況でもどんなところでも順応して生活できてしまうのがアキさんのすごいところだ。
それでは現在の彼は何をしているか?というと,なんとアキさんは優秀な日本語教師だ。台湾、沖縄での日本語教師の経験を経て、数ヶ月前まで2年間中国の大学で日本語を教えていた。その大学ではなかなか中国人の大学生からも慕われていたらしい。そして今年になって中国から帰国したのだが,このあと日本の大学での講師としての職が決まっている。元バスカーの大学講師も珍しいと思うが,彼の語学の才能,あるいは一つのものごとを追求する姿勢ということを考えると彼の生き方として繋がるように思える。そしてバスカーからみごと社会復帰を果たし、意欲的に自分の人生をとらえて、今も自分の価値観で人生を歩んでいる姿には,「やっぱりアキさんだな。」と感じてしまう。
生きていく上で,何をすべきか、どの方向に進むべきか見えなくなることがある。
そんなときは,焦らずに,今自分には何が出来るのか,または何をすべきかを考えてそれを実行していく。明日何が待っているのかを心配するのではなく,今日自分のやるべきことをやっていれば,必ず自分に適した明日がやって来る。何があっても自分自身を信じる。こんな風に書くとなんか少し宗教じみた考え方かもわからないが,すごく前向きな人生観に違いない。そして,何より大切なのは社会機構の価値判断ではなく,自分の心の中の価値を基準として生きて行く。これが僕がアキさんと出会い,二人で話し合っているうちに形成された人生観だ。
アキさんがいつか指摘したように「バスカーになるために生まれた」僕は現在も現役バリバリのバスカーである。社会機構の外側で自分の好きなことをして生きていくという姿勢はあの頃も今も変わっていないのだが,家族がいる今の僕の状況は完全に「自由」という状態ではない。ある種の妥協点を見つけ「自由」と「安定」のバランスを取りながら生きていっているというところだろうか。
直接会うことは少ないとしても、これからもアキさんとはずっとつきあっていくのだと思う。彼のように強力な個性的な人間と知り合うことが出来、ともに同時代を生きていけることに幸せを感じる。これも僕と彼とは「縁」があるのであろう。