アキのこと1

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日本を27歳のときに飛び出してから,いろんな人と出会い,いろんな影響を受けてきた。

今の自分の考え方があるのも,それらの人々との出会いがあったからだと思う。でも,その中でも特に印象に残っている人がいる。それは当時僕と同じ日本人バスカーだったアキさんだ。彼とは,東南アジアで出会い,その後ヨーロッパでも一緒だった。今の僕の「今日をちゃんと生きている限り、きっと明日もどうにかなる。」と言う楽観的でポジティブな人生観は彼からの影響かもわからない。

僕が,アキさんの噂を聞いたのは,旅にでて2年目のシンガポールでのことだ。シンガポールが意外にバスキングで稼げるのに気を良くしていた僕は,宿泊していたバックパッカーズの宿泊代を毎朝バスキングで稼いだ小銭で払っていた。するとホテルのスタッフが僕に「お前以外にもシンガポールで演奏している日本人バスカーがいるぞ。」と教えてくれた。僕としては,日本人がシンガポールでバスキングをしているなんて何かの勘違いだろうと思い気にもとめなかった。

シンガポールでは知り合いもたくさん出来て,居心地が非常によかったので、マレーシアのジョーホーバルに数回国境を越えて,滞在ビザを延長した。そして、今後の旅費を少し蓄えた僕はオーストラリアを目指して,インドネシアのジャカルタに向かうことにした。清潔なシンガポールからジャカルタに着くと結構カルチャーショックを覚えた。ごみごみしていてどこもかしこも汚い。ここではバスキングをする気にもならなかったので,いくら物価は安いとは言え収入がゼロなので必然的にぼろぼろの安宿に泊まることとなった。共同トイレが全部つまっているという非常に大変な宿だったのだが,そこのロビーにギターを持ったアジア人がいた。彼は日本人には見えなかったのだが,シンガポールのホテルで聞いた日本人バスカーのことを思い出した。ちょっと取っ付きずらそうな人だったのだが思い切って話しかけてみると,やはり彼がそのシンガポールでバスキングをしているという日本人だった。何でも彼はバリ島のインドネシア人のうちに居候しているそうで,今からそこに帰るのだという。そしてその住所を書いて僕に渡してくれた。でも,本当のところあまりいい印象を受けなかったので,たぶん訪ねることもないだろうとメモを捨てようかと思ったのだが,やはりひとまずとっておくことにした。

その後,僕はジョグジャカルタ経由でバリ島に渡った。

バリ島では日本人作家や元やくざの小指のないサーファーと出会い,彼らと毎晩バーに繰り出しては地元の若者とギターを弾いていた。,クタビーチでバスキングも決行し,充実していたのでアキさんのことはスカッリ忘れていた。ところが,もうすぐオーストラリアのパースに飛ぶというときに宿泊していたホテル内で盗難にあってしまい,パスポートとトラベラーズチェックをなくしてしまった。幸い再発行が効くものばかりだったのだが,新しいパスポートが届くまで1週間ほどぽっかりと時間が出来てしまった。もうやることもないので,どうしようかと考えていたときに思い出したのが,例の捨てなかった住所だ。

でも,この住所,当たり前だが観光地とは何の関係もないところでガイドブックの地図にはのっていない。何人もの人に場所を尋ねてなんとか近くまでたどり着いたのだが、確か番地がなかったと思う。この辺りだと言う確信はあったのだがはっきりした家はどうしてもわからない。仕方がないので「アキサーン。アキサーン。」と叫ぶことにした。しばらく叫んでいると僕の声を聞きつけた住民が,親切にもアキさんのところに案内してくれた。

彼の住んでいたのはバリダンスを踊る一家の離れで,急な階段を上がったがった所にある彼の部屋はこざっぱりとしてとても居心地良さそうだった。ジャカルタでの彼の印象はあまり良くなかったのだが,この時のアキさんはとても饒舌で直ぐに打ち解けて話すことが出来た。

アキさんは東京の大学を卒業して,数年旅行会社で働いたあと日本を飛び出して,東南アジアを流れて結局このバリ島にたどり着いたとのことだった。シンガポールとインドネシアとの物価差を利用して,シンガポールで1ヶ月バスキングをしてお金を稼ぎ3ヶ月バリで生活するという暮らしを数年続けているそうだ。彼のバスキングのスタイルはフィンガーピッキングのソロギターで,クラッシックからブルース、そしてワールドミュージックと幅広くやっていた。でもその頃からギターの練習のし過ぎで右手を痛めており,ギターの長時間演奏は出来ないため,竹笛でもバスキングを行っていた。確か彼は僕より2歳ぐらい若かったと思う。彼の風貌はインドネシア人そのもので,その流暢なインドネシア語と相まって現地の人からもインドネシア人と思われていたぐらいだ。

そのあと僕は1年に1回か2回はシンガポールを訪れるようになった。バスキングのベースキャンプがスイスとシンガポールという形が形成し,両方の国に友人、銀行口座を持っていた。そしてシンガポールを訪れるたびにアキさんに会った。その頃は,オーチャードストリートの地下道で演奏することが多かったので,アキさんと夜の11時ぐらいまで,お互いに別々の場所で演奏し,そのあと二人でホーカズセンターに夜食を食べにいったものだ。二人でぶっかけ飯を腹一杯食べた。

彼とは実にいろいろなことを話し合った。お互いのバスキングについて、人生観、音楽への思い,表現について,日本のことや自分の将来の展望など。今と違いインターネットもなく海外で生活していると日本との繋がりもほとんど無くなり,日本語を使うこともないような状況で,同年代であり,同業者であるアキさんと話し合えるということはすごく心強い存在であった。

彼の強烈にポジティブな人生観には大きな影響を受けてしまった。

「他人のものは自分のもの。自分のものは自分だけのもの。」これはバックパッカーズの共同冷蔵庫に入れてある食料のこと。
もう少しまともなものでは「たとえどんな逆境になっても、それはその時の自分に必要である状況だからそうなっているんだ。」とか。「その人に出会ったのは必然であり,何か自分にとって意味があるということ。また反対に会わなくなったのも必然なんだ。」僕については「トシさんとこうして何回も会うのは縁があるということですよ。」と言っていた。
まあ,なんか自分勝手でご都合主義に思えるかもわからないが,社会機構の外側で自分一人で生きていくには,これぐらいの信念がなければ潰れてしまう。彼の人生観は一見自分勝手な価値観な様でいて,自己の責任についてはちゃんと押さえていて,どこか一本スジが通っている考え方だった。アキさんはどんなことがあっても生き残る「ゴキブリのような人」だろうなというのが僕の彼に対する感想だった。実は僕も旅のころは他の旅人から「トシさんはゴキブリのように生き残れるタイプ」とよく言われていたのだが,アキさんにはとてもかなわない。

ギターのテクニックを追求していた彼にとって、その頃の「ただひたむきに歌い続ける」という僕のバスキングのスタイルにはあまり共鳴してくれなかったのだが,僕のバスカーとしての能力については高く評価してくれていた。まあ,ことあるごとに「バスカーは素晴らしい生き方だ。」「社会機構にとらわれずに自由に生きていく道は,バスカーか修行僧だけだ。」と声高に叫んでいた僕に半ばあきれていたところもあったのだと思うが,「トシさんはバスカーになるために生まれてきたんですよ。」とか「他のバスカーとは違い,トシさんが演奏しているとオーラがでていますよ。」とか言っていた。

そして彼独自の「バスカープロレス論」を展開してくれた。彼によると「バスキングというのは,格闘技で例えるならプロレスのようなものだ」と。プロレスというのは,強い事だけがそのまま「いいレスラー」ということではなく,ショーアップし観衆に受けるレスラーがいいレスラーなのだ。つまりそれは「弱さ」や「派手さ」がセールスポイントになることもあり,架空の世界をいかに作り上げていくかがポイントだということ。バスキングもテクニックや上手さが勝敗のポイントにはならず,あえて下手に弾くとか,音楽に合うコスチュームを着るとか,逆にあえてみすぼらしい服装を身につけるとか,なんでもありの世界で,楽器や歌の上手さとは直接関係のないものだ。という考え方である。僕もある面その考え方には賛同する。