たかが音楽,されど音楽

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バスカーになって26年になるが、バスキングをしていて全然コインが入らない時はいまだにつらい。だからそんな時を極力なくすように「コインの入る時間帯、コインの入る場所を選ぶ」というバスキングでのマネージメント部分を真剣に考えているのだが,それでも外してしまうことが多い。実際のところ「コインの入らない時はさっさとやめればいい」という考え方もあるのだが,いつ稼げない時間帯から,稼げる時間帯に変わるのかもわからない。それに自分の方でも「この場所はいい場所のはずだ」とか変な意地があったりもする。そんな時はまさに我慢比べになる。とは言え,何との我慢比べなのかわからないが。
稼げる時のバスキングは楽しくて仕方がないのだが,コインが入らない,誰も聞いてくれない時のバスキングは,精神的に応える。「いったい自分はここで何をやっているのだろうか?」と思うこともよくある。そんな時は,体は楽器を奏でながらも,意識は自分の中へ中へと入っていく。これは僕だけではなく,他のバスカーでもそうであるようで,アメリカ人のギター弾き語りバスカーのBobが,「俺にとってバスキングは,瞑想することと同じなんだ。」と言っていた。ちなみにこのBobは、イーグルスのドン-ヘンリーばりの声を持つバスカーで,僕がスイスでバスキングを始めた20年以上前からの顔見知りだ。彼はスイスでの数少ない生き残りバスカーの一人である。
全然コインが入らなくても,演奏のクオリティーは落とさないようにしている.稼げるときにいい音を出すのは簡単だが,誰も聞いていないのに真剣に演奏するのは結構大変だ。「こんなにいい音を出しているのに何故コインが入らないのだ?」と思いながら演奏する。そうすると嫌が上にも「たかが音楽だものな」と思い知らされる。たとえ,僕以外のどんなすごいミュージシャンが演奏したところで,それは音楽でしかない。実際人間にとって音楽より大切なことはいっぱいあるのだ。自分にとって音楽は特別なことかもわからないが,他の人にとってはそうではないのだ。
コンサートや演奏会では,そこで音楽を演奏するということは決まっていて,したがってそこにいる人はたいがい音楽を聴く態勢にはなっているはずだ。でも路上での演奏は,誰もそこに音楽があることを期待もしていないし,聞きたいとも思っていないはずだ。買物であれ,待ち合わせであれ,何か目的があってそこを歩いている人がほとんどだろう。まあ,音楽なんてあってもなくてもどちらでもいいもので、演奏が上手かろうが,下手であろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
こうして長く音楽を続けていると,あたかもそれがとても意味があり,素晴らしいもののように錯覚してしまう。でも本当のところは,「音楽」で空腹が満たされるわけでもなければ,病気が癒されるわけでもない。直接的には何の生産活動もしていない。まさに「たかが音楽」なのである。バスキングは,その現実をストレートに示してくれる。
けれどもまた,路上で演奏していると,いろんな人が立ち止まり声をかけてくれる。「本当は電車に乗らないと行けないんだけれど,あなたの音楽を聴いていると足が動かなくなってしまった。」とか、「なんだかわからないけど,突然涙があふれてきた。」とか言われたことがある。あるいは,「あなたの音でこの町がとても癒される。」「雨の日に太陽の光が射しているようだ。」とか。また,死期をむかえた老婦人が僕のCDを聞きながらとても安らかな最後の時間を過ごせたとその友人から感謝されたこともある。そんな時は,「されど音楽」という言葉を思い出す。何の実益のない「音楽」というものにも人に何かを与える力がある。空腹を満たすことは出来ないし,病気を治すことも出来ないけれども,心に何かを伝えることは出来るんだなと。単なる空気の振動であるはずの音楽にそんな力があることに驚いてしまう。そして,やっぱり音楽っていいな。ミュージシャンで良かったなと感じる。
ミュージシャンとして僕がバスキングに魅力を感じるのはそんなところかもわからない。「たかが音楽,されど音楽」バスキングはこのことをいつも僕の目の前に突きつけてくれる。そして自分が音楽で生きていることをおごる必要もなければ,卑下する必要もない、と教えてくれる。