パリ200年祭 2

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僕とジミー、そしてセクシーボーイは、毎夜演奏を続けていた。

そのうち、パリの街は、日に日に目に見えて旅行者の数が増えてきた。夜遅くなど、広場のあちらこちらで、寝袋を広げて野宿する若者の姿も目に付きだした。それもそのはず、パリ際の日が近づいてきているのだ。しかも、今年は200年目にあたり、大規模なイベントが行われるという。いやがうえにもパリの街は、熱気を帯びてきた。

そんな前夜祭を翌日に控えたある晩、ジミーが僕に尋ねてきた。

「トシ、明日は何の日だか知っているだろう。明日の夜も来るかい?」

「もちろん来るよ。」

「そう、明日は、俺たちはちょっと違う場所で演奏するよ。なにせ明日は、前夜祭だから何が起こるかわからない。」

ジミーは、少し興奮した様子で言った。

「それじゃ、明日は、僕はどこに行けばいいんだい?」
「7時くらいにここに来ればいいよ。その頃には、みんな集まっているはずだから。」

僕にもジミーの調子が移ったのか、いったい何が起こるのかわからないままに、興奮だけは抑えがたい気持ちになってきた。
翌日僕は、約束の時間が来るのを首を長くして待っていた。そして、ついに待ちきれず、6時過ぎにはギターを持って、ポンピドーセンターの前の広場へやって来た。さすがに、少し早すぎたのか、彼らの姿はどこにも見当たらなかった。僕は地面に腰を下ろすと、少し見飽きたバスカーたちのパフォーマンスを眺めていた。

どれぐらいの時間が、経過したのであろうか。ようやくいつものメンバーの顔がそろった。まずは、このポンピドーの前で少しやってみようということになった。今夜の演奏は、いつもの3人だけでなくフルメンバーだ。僕を含めて4本のギターに3人のボーカリスト。それに、その周りを彼らの仲間20人ばかりが取り囲んでいる。これだけ人数がいたら、いやがうえにも盛り上がる。しかもこの夜のポンピドー広場の周辺は、人が多すぎて身動きが取れないほどの状態。その上、人が集まっているところには、いたずら好きの誰かが、爆竹を投げ込んでくる。これには参ってしまった。僕たちの輪の中にも、3,4回と爆竹が投げ込まれた。実際、これはかなり危険で、毎年パリ際でけが人が出ているという。たまらず、僕たちは場所を変えることにした。

皆、ギターをさげたままの格好で歩き出した。

僕たちのギターケースは、仲間の誰かが持ってきてくれるのだ。僕たちは、ギターを抱えてメトロの駅の中へと入っていった。メトロの駅の中もすごい人だ。そして、驚いたことには、誰一人として切符を買わずに入っていく。この日ばかりは、検礼官も来ないと見えて、注意するものも誰一人いない。それをいいことに、どんどん自動改札機を乗り越え、あるいは出口専用の扉をこじ開けて、中に入っていく。もちろん、僕もギターを持ったままジャンプした。そして、滑り込んできた列車に飛び乗った。僕は、もういったい自分がどこへ向かっているのかわからなかった。でも、こうなったら彼らにどこまでもついていくより方法がない。

僕らの乗り込んだ列車の中は、意外とすいていて、僕をはじめ、ギターを持っているものは、席に腰を下ろすことが出来た。1つ目の駅を過ぎた頃、シングが、ビートルズのミシェルを歌いだした。シングは、30歳を過ぎたラオス人で、彼が20台のときは、ヨーロッパ各地をギターを持って旅したそうで、日本にも来たことがあり、半年ほど六本木のディスコで働いていたといっていた。ストレートの長髪に笑顔の素敵なナイスガイだ。僕も彼の演奏に合わせて、ギターを弾き、歌いだした。すると、その歌の輪に一人加わり、二人加わりと、次第に広がっていき、気づいたときには、その車両に乗り合わせた見知らぬ人たちまでが、皆歌を口ずさんでいた。
次にシングが、歌いだしたのは、同じビートルズの“LET IT BE”。さびの部分になると、その車両の全員が歌った。

やがて、いくつかの駅を通り過ぎた列車は、僕たちの目指す駅へと到着した。僕たちは、演奏を続けながら、プラットホームに降り立った。別の列車から降りてきた人々や、プラットホームで列車を待っていた人たちの視線がいっせいにこちらに集まった。でも、僕たちは、そんなことを気にするでもなく、歌を歌い続けた。すると、プラットホームのあちこちから、僕たちの演奏に合わせて、歌声が聞こえ出した。そのとき、駅に居合わせた何百人という人たちが、僕たちの演奏にあわせて歌っているのだ。プラットホームの大合唱の中を僕たちは、歩き出した。誇らしげに胸にギターを抱えながら、大声で歌い、ギターをかき鳴らした。僕たちが駅の通路を歩いていくにしたがって、歌の輪も移動した。メトロの長い階段を登って、外に出てみると、そこには、エッフェルタワーが聳え立っていた。

僕たちは、エッフェルタワーを背に、一晩中歌い続けた。そのとき、僕は、ただの旅行者ではなく、自分がパリの一部になっていると感じられた。
そのあとも、ラオス、ベトナム人のグループとの交流は、続いた。夏のコートダジュールの彼らのバカンスに仲間入りさせてもらったり、彼らの何人かとは、2週間ほどのヨーロッパの演奏旅行にも出掛けたりした。

今も、ポンピドーの前では、あの頃のようにギターを演奏しているアジア人のグループがいるのだろか?その後も僕は何度もパリを訪れ、自分でアパートを借りていたこともあった。でも、僕のパリの思い出の中で、あの夜の出来事ほど、僕の胸の中に残っているものはない。