パリ200年祭 1

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よく人から、どこの国のどの街がよかったか尋ねられる。そんなときは、困ってしまう。それぞれの場所には、それぞれの思い出があるわけだし、それを簡単に比較はできない。それに旅の思い出は、その国なり、その街でいかにいい出会いがあったということなので、非常に個人的かつ主観的なものになってしまうだろう。だから、第三者がその場所で、同じ感想を持つというのは、はなはだ疑わしい。

それにもかかわらず、先の質問、“どこの街がよかったか”と聞かれると、いつもパリと答える。正確に言うなら、パリがよかったのではなく、パリが好きなのだ。パリは、僕にとってバスキングの上では、稼げない土地の1つである。バスカー同士の激しい競争と共に、基本的にお金を集めなくてはならない、というシステムが、僕には合わないのだ。したがって僕のパリでの生活は、金銭的には、苦しいものとなる。バスキングだけでは、生活費を稼ぎ出せず、友人の紹介で、ベジタリアンのレストランで働いたこともある。それにもかかわらず、僕はパリが好きだ。

過去の歴史と現在の活気が上手くマッチした街。セーヌ川に映えるノートルダム寺院、ルーブル宮。ちょっと大通りから横に入れば、石畳の坂道が続く。朝夕にパン屋さんから流れてくる、クロワッサンやパケットを焼き上げるいい香り。街の交通手段も整備されている。地下鉄メトロを始め、バスにしても、近郊列車のMRTも、旅行者でも直ぐに使いこなせる様に整備されている。しかも、パリは、少しがんばれば、歩いてどこにでもいける大きさだ。花の都パリ。フランス語のほとんど話せない僕も、パリの魅力に魅せられた一人だ。

1989年7月、僕は、愛用のギブソンのギターを携えて、ロンドンよりパリにやって来た。パリについた当初の僕は、この街が好きになるどころか、一日も早くここを抜け出すことばかり考えていた。パリでは、英語は通じないということは、よく耳にはしていたが、本当に誰とも話さない日々が続いていた。日本、ロンドンでもらったパリの知人の住所は、連絡が取れず、おまけに体調を少し崩していて、精神的も肉体的にもかなりまいっていた。

それでも、バスキングには、ギターをかついで毎夜出掛けていた。ヨーロッパでも一番といわれるバスキングのメッカ、ポンピドーセンター前の広場。ここでは、昼夜を問わず毎日数え切れない数のバスカーが、パフォーマンスを行っていた。フォーク、ロック、ジャズ、レゲエなど様々なミュージシャンをはじめ、前衛舞踏やパントマイムを含めたダンサー、それに火吹き男や鎖抜け、剣飲みといった大道芸人。国籍のほうも様々だ。ドイツ、イタリア、イギリスなどから流れてきた白人、モロッコ、ナイジェリアなど北アフリカからの人たち、そして、ラオス、ベトナム、中国などのアジア系。ただ、フランス人のバスカーは、あまり見かけなかった。

僕は、この激戦スポットをはずして、隣の噴水広場で演奏することにしていた。それでも、このポンピドーセンター前の広場には興味が尽きず、時間を忘れては、世界のバスカーたちのパフォーマンスを楽しんでいた。毎夜この広場の一角で演奏しているアジア系のグループがあった。アコーステックギター3本から4本で、交代しながら歌っている。回りに座り込んでいる仲間を入れると全部で20人ぐらいのグループだろうか。初め僕は彼らのことをてっきり中国人だと思っていた。彼らの演奏自体は、それほど上手くはないのだが、何しろ大人数なので、いつも旅行者が集まり盛り上がっていた。
僕は、同じアジア人ということもあり、毎夜彼らの姿を見かけると声をかけていた。彼らのほうも気軽に声を返してくれた。

そんなある日、彼らの中の二人が僕に近づいてきて、“一緒に演奏しないか”といってきた。そのうちの一人は、僕と同じスタイルのギターを弾きながら歌う、ジミーというニックネームの中国系ラオス人。もう一人が、ボーカリストで、頃合いを見計らってお金を集める係りの、セクシーボーイと呼ばれているラオス人。僕としては、一人で演奏したところで、そんなには稼げないのだから、この際この話に乗ってみることにした。

三人で並んで演奏を始め、何とか人垣を作る。そして、盛り上がったところで、セクシーボーイが帽子を持ってお金を集めて回る。集まったお金は、3等分するので、そんなに稼げるわけではないのだが、人垣の中演奏するのは、ちょっとしたスター気分を味わえるので、実に気分がいい。手拍子を取ってもらったり、一緒に歌ったり、時には、踊りだす若者もいる。僕は、このとき東京、ロンドンでの哀愁型スタイルとは異なるバスキングを初めて体験した。演奏で、人を乗せて、楽しませるエンターテナー型のバスキング。

僕らは、毎夜休憩を挟みながら30分ほどの演奏を場所を変えながら繰り返した。ジミーは、ギターも上手く、シンガーとしてもそれなりに歌いこなした。セクシーボーイは、名前ばかりで、実際には、背の低いどこにでもいるようなオッサンで、歌も上手いとはとても言い難いのだが、どこか愛嬌があり、憎めないキャラクターを持っていた。僕は、いつか彼らを心待ちするようになり、もはや一人では演奏しなくなっていた。そのうちに、二人以外のグループの者とも親しくなってきた。僕が、最初に中国人だと思ったのは間違いで、彼らは、ラオス、ベトナムから移民してきた若者たちだった。最も、彼らの中には、中国系のラオス、ベトナム人も混じっていたので、あながち僕が彼らを中国人と考えたのも間違いだとは言い切れないのだが。

彼らは、移民して10年以上のものがほとんどで、皆フランス語、半分ぐらいのものは、英語も話す。移民というと、何かしら暗いイメージを持っていた僕は、彼らの明るさ、そして生活を楽しんでいるその姿に驚かされた。