ナルシスのこと

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スイスに住む人は実に几帳面である。

約束は基本的に守るし、時間に対しても正確だ。例えば、友人を食事に招待しようとすると事前にアポイントを取って、その日は時間きっちりにやってくる。もちろんこちらから訪ねていく場合も同様にしなければならない。生活しやすいといえばそうなのだが、その反面おもしろみに欠ける面もある。

その点ナルシスに関しては、これに当てはまらない。突然窓をコンコンと叩いてやってくるし、前触れもなくどこかに出かけないかと誘ってくる。また、悪ふざけやジョークばかりでどこまでが本心なのか察するのが大変だ。

彼との交友を考えるたびに、まるで子供の頃 よくテレビで見ていた「吉本新喜劇」の世界観みたいだと思う。彼は劇中に出て来た押しの強く得体のしれない変なおっさんそのままだ。僕たちは、本来スイスでは決して味わえないディープな彼との交友関係を楽しんでいる。

ナルシスのことを少し説明しておきたい。

彼は今年80歳になるレバノン人で、「ラスプーチン」というロシアの怪童を芸名にしたマジシャンである。スイスに住んで60年近くになるそうで、アラビア語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を話す。僕たちの住むBielでは彼はパフォーマーとしてちょっとした有名人だ。

その高齢に関わらず、体力は僕よりもずっとあると思う。若い頃はボクシングや柔道、ウインドサーフィンもやっていたそうで、今でも特性のスキーを履いて湖を歩くのが趣味だ。頭の方もまだまだ冴えていて、精神年齢も若く、いつも何か新しいことにトライしている。彼のいいところは年下の人にも分け隔てなく接するところだ。僕たちの息子とも上からの目線ではなく、対等に話している。彼を見ていると年をとってもこんな風に生活できるんだと驚かされる。

そんな彼に2年ほど前からギターを教えているのだが、これまで楽器など一度も習ったこともなかったので、さすがに70歳後半から新たに楽器を始めるというのは難しい。普通なら教師の方で根を上げているところだろうが、僕としては彼のボケ防止に貢献していると思うことにしているし、彼としてはレッスン後のコーヒーを飲むために続けているのではないかと想像している。

彼を知る人は多いのだが、それは「ラスプーチン」としてであって、ナルシスではない。

彼自身がステージとプライベートの区別なく生活しているのだからある意味当然のことなのだが。片っ端から見ず知らずの人のところに近づいては、マジックのいくつかを披露して、「パーティーを開く際には連絡してくれ」と名刺を手渡す。彼のズボンのポケットにはトリックのネタが数知れず入っていて、まるでドラえもんの四次元ポケットのようになんでも出てくる。

しかしそんな彼の押しの強さを嫌う人も数多い。実際いきなり話しかけられて戸惑う人や逃げていく人もいる。僕たちも彼のそばにいて居心地が悪いことはしょっちゅうだ。僕たちの周りでも彼が苦手な人も多く、会わせる人を選ばなければならない。

でも、実際に付き合ってみて判ったことはその仮面の下に繊細な人格が隠れているということだ。ショウの間はもちろんプライベートでも物おじぜずに他人に絡んでいく一方で、批判されると意外に気にして落ち込んだりしている。

また老人ホームに行って話し相手のいない人の話を聞いてあげたり、頼まれると引っ越しの手伝いや、いろいろな雑用もやってあげる優しさも持ち合わせている。本人が気にいると損得の勘定なしで人と付き合うタイプのようだ。

親しくなってから、人体浮遊など大掛かりなものからコインを消すというオーソドックスなものまで彼のマジックはほぼ全部見せてもらった。それらのトリックの方も結局は全て教えてくれて、そのいくつかは僕たちにやってみろとトライさせられたりもした。彼の場合マジシャンというよりもエンターテナーという感じで、中には子供騙しのマジックもあるのだが、いくつかのマジックは種を知っているのに、何度見てもどうやっているのか見えないものもある。

彼の見た目は国籍はもちろん得体の知れない風体なので、僕たちはてっきり彼は独り身で家族などいないのではないかと思っていたのだが、離婚はしているものの、娘二人と息子一人がいて、孫も二人いる。定年まではショーウィンドウの飾り付けを本職としていたそうで、意外と安定した生活を送って来たみたいだ。

ただ彼は自分が老いていくことを受け入れることができないようだ。

アメリカ、オーストラリアに住む姉たちが老人ホームで過ごしている様子を複雑な思いで話してくれる。実際彼は今でも子供のような一面を持っていて、遊び心など僕などとてもかなわない。それでもやっぱり、いつの日にか彼も老いを受け入れないとならない日が来るのだと思うと感慨深いものがある。

彼を見ていると、1日1日を楽しく生きていることが重要なんだと教えられる。年齢なんかその人の生き方次第であり、絶対的なものではないとさえ感じる。

僕もまたそんなふうに生きていければいいのだが。

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