Kのこと1

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現在、幸いなことにスイスにおいていい友人たちに恵まれている。

生活をしていく上で、何でも相談できる友人がいることがどれほど大切なことか。

でも、そういった友人とは別のレベルで、たいていの人には自分の人生において決定的な影響を与えた、あるいは、今も与え続けている人がいるものかもしれない。僕の場合は、Kだ。

Kは、僕が高校2年生のときのクラスメートで、一番の親友であった。中学から音楽を始めて、高校生からはロックバンドを組んでいた僕が、Kとどういうきっかけで親しくなったのか、もう思い出すことは出来ない。Kは、長身でなかなかの二枚目で、確かラグビー部に所属していた。たぶん何かちょっとしたきっかけで話し始めたのだろう、話してみると彼もギターを弾き、ビートルズ、しかもジョンレノンの大ファンだそうだ。二人で意気投合し、彼は、僕のバンドのベーシストになった。その後、彼は、ラグビー部を退部し、僕との音楽活動に集中した。そのころ僕たちにとっての音楽とは、自己表現の手段と考えていて、音楽だけではなく、二人とも文学、芸術にも興味を持っていた。そんな僕たちが考え出した創作力を高めるトレーニング方法は、二人で交換日記のように、交換小説を書くというもの。毎回交互にイラストを交えての文章を書いていく、打ち合わせなし、話が自分の考えの方向でなくてもつじつまを合わせて書き続けなくてはならない。僕とKは、同時に2つの異なるテーマで、この交換小説を書き出した。

あとひとつは、僕のアイデアで、辞書で無作為に1つの言葉を選び、その言葉をタイトルまたは、キーワードとしてひとつの歌詞を作り上げるというもの。翌日どちらがうまく作ったか議論し、二人で気に入ったものには、競作で曲を作るというもの。こんなことを二人で数ヶ月は続けたと思う。

僕たちのバンドの音楽活動も、ほかの地元のバンドと共同でのコンサートを企画し、何回かちゃんとしたステージでのコンサートも行った。もちろん僕たちの高校の学園祭にも僕がピアノ、Kがギターという編成で参加した。僕とKは、親友であると同時に、絶対に負けたくないライバルでもあった。まさしく、ビートルズにおけるジョンとポールの関係である。

高校3年生の夏ごろになると、今までは「勉強なんて」と意気込んでいた生徒までもが受験勉強を始めた。ロックを愛するリベラルな僕としては、そうやすやすと自分の生き方を変えるわけには行かなかった。「何だ、あいつら、偉そうに言っていても結局システムに従うだけの羊じゃないか」と同意をKに求めようとすると、そのKが、真剣に受験勉強を始めた。おまけに音楽活動は、しばらくは中止するとのこと。僕は、何かKに裏切られたような気がした。内心ほかのやつらのようになりふり構わず受験勉強に没頭したかったのだが、結局浪人を覚悟で勉強しないことにした。

翌春、Kは、国立の外国語大学の2部に合格し、ロシア語を学びだした。

一方、僕は予定通り予備校に通いだした。予備校に通いだして、僕は初めて日本の教育システムの中で「勉強」について納得できる説明を受けた。勉強するとは、頭を良くするとか、高い人格を形成するとかとは一切関係がなく、大学入試のテクニックを習得することであると。今までいつも欺瞞に感じていた、教師の言う「いい人間になるための勉強」ではなく、単に点を取るためのテクニック。まさに僕の考えていた解釈だった。そんなわけで、この期間僕は、勉強、つまり点取りテクニックに心置きなく集中することが出来た。

その次の春、僕は志望大学に入学し、Kを1年ぶりに訪れた。Kは、実家を出て大阪市内のぼろアパートで一人暮らしをしていた。朝夕の新聞配達と奨学金で完全に経済的に自立していた。そんなKは、自分と比べてずいぶんと大人に思え、自分が世間知らずのヒヨッコのように感じられた。

その後、僕は、大学の同級生とのバンド活動に集中した。自分が気に入ったメンバーを集め、自分自身はボーカルを担当した。京都のライブハウスやいろんな大学の学園祭など結構演奏の機会には恵まれ、順調に活動をしていたのだが、3回生になったとき、壁にぶつかり、僕自身がやる気を失ってしまった。これ以上のメンバーは望めないので、もう音楽をやめようと決心した。バンドのロゴマークを入れたバンを売却し、所有していた一部の楽器を処分し、ステージ衣装を友人に譲り、僕はバンド活動から完全に足を洗った。そして、久しぶりにKを訪ねてみる気になった。このときKは、大学の寮に住んでいて、バンドを組んで、大阪の北のライブハウスを中心に活動していると話した。そして、将来どうするかは、まだ決めていないので、出来る限り留年して大学に残るつもりだといっていた。その当時「フリーター」なる言葉も概念も存在しなかった時代だ。僕の漠然とした大学を4年で卒業し、就職するという「敷かれたレールの上を走る人生」ではなく、Kは、自分の足で一歩ずつ自分の人生を歩いているという印象がした。僕は、Kの生き方に対してコンプレックスを抱くのを阻止することが出来なかった。

その後、予想通り僕は、大学を卒業して東京で働きだした。

3年間は、何もわからず、ただがむしゃらに働き続けた。あるときふと自分のこれから先の人生を考えてみると、この先の自分の人生が何もかも予想がつくことに気づいた。

こんな人生を送るために生まれてきたのだろうか?

これが自分の人生として、死ぬときに受け入れることが出来るだろうか?

そんな風に考え始めると、どうしようもない圧迫感を感じた。とはいえ、自分の人生を転換するような大きな決断を直ぐに下せる勇気も僕にはなかった。

 

この焦燥感は、消え去るどころか、日にちが経てば経つほど僕の中で大きくなっていった。

僕が決断を下すまでには、半年という時間がかかった。

自分の人生を社会の価値観ではなく、自分の価値観で生きていく。Kにとっては、ごく当たり前だったことが僕には、悩みぬいた末に到達した解答だった。

ギターを持ってヨーロッパに旅立ち、本物のバスカーに出会った。

10ヵ月後、一時帰国した僕は、Kに興奮した声で電話をした。

「おいK。俺たちのあこがれていた生き方が存在するんだ。バスカーや。一緒にヨーロッパに行こうぜ。音楽と自由だけを道ずれに生きていくんや。」

しかし、Kから返ってきたのは、

「俺、結婚することにしたんや。M子の両親に挨拶に行ってな。そのときに出された条件が、ちゃんとした会社に就職すること。そやから、今からは就職活動や。」

僕は、なんて皮肉なことかと思った。今までずっとコンプレックスを感じていたKの自由な生き方を僕が手に入れたときに、そのK自身が、安定した生き方を目指しだしたとは。

僕は、バスカーとして、日本社会どころか、ほとんどの社会機構の枠組みの外側で生きだした。なにものにもとらわれず、どこまで自由になれるか?

でも今度は、自由についてきた孤独に悩まされることになった。

2年半経ったとき、Kを訪れてみることにした。

そのときKは貿易会社で働いていて、香港勤務になっていた。もちろん、M子さんと結婚して。

香港の待ち合わせ場所にいつもどおり少し遅れて現れたKは、スーツ姿がすっかり板についたビジネスマンだった。奥さんと暮らしている、高層マンションに香港にいる間は、泊まるように薦めてくれた。奥さんとの甘い新婚生活にすこし嫉妬を感じながらも旧交を温めることが出来た。Kがなぜ安定と安らぎを選択したのか少し判った気がした。しかし、その反面、自分には、当分はこの自由なバスカーの生活があっているのも確認できた。

その後、東京近郊のKのすまいを訪れたことがある。そのときは、奥さんと息子さんは留守で、二人で昔話に花が咲いた。ただ、お互いの人生における方向性は同じで、ぴったりと逆を向いたままだった。